シーズンも中盤に差し掛かり、徐々に本来の打撃に戻りつつある、ソフトバンクホークスの内川聖一選手。

内川聖一選手と言えば、2008年に右打者の史上最高打率.378をマークし、首位打者を獲得したほどの球界屈指の好打者である。

その球界を代表する好打者の内川聖一選手のブレークのキッカケとなった2008年を中心に、お話したいと思います。

2007年までの内川聖一選手

内川聖一選手は、大分工業高校出身で、横浜ベイスターズからドラフト1位の指名を受けて、入団することになりました。

ちなみに入団前は、大分工業高校の監督でもあった父親が法政大学出身ということもあって、息子の内川聖一選手も法政大学に行くことが確実視されていたらしいが、横浜ベイスターズから1位指名された為、入団することになりました。

入団後のプロ1年目(2001年)から、1軍を経験したが、二打席でノーヒットでシーズンを終える。

入団2年目(2002年)から、徐々に試合が増えた始める。

入団3年目(2003年)のキャンプ中には、突然右目の視力が落ちるアクシデントに見舞われ、開幕一軍を逃す。

しかし、シーズン途中、石井琢朗選手の調整の為に昇格した際、一時はレギュラーに定着しかけたが、原因不明の体調不良により右手の握力がなくなり、登録抹消となった。

その後の9月には、再昇格を果たし、打率.313の結果を残した。

ちなみに、体調不良の原因は、顎が右に曲がり、神経を圧迫していたことが原因だとわかった。(笑)

内川聖一選手と言えば、「顎」というくらいの代名詞となっているが、実は、みなさん知らないと思いますが、そのような過去があったのです。

そして、入団4年目(2004年)あたりからは、100試合ほどの試合に出場し、2004年には、自己最多の17本塁打を放ちました。

その後、2005年〜2007年にかけても3割に近い打率を残したが、なかなか安定した打撃ができず、レギュラーを獲得するにまでは至らなかった。

2008年の内川聖一選手

2008年は、開幕から打撃が好調で、なおかつ、ファーストを守っていた佐伯貴弘選手が不振だったこともあり、慣れない外野ではなく、ファーストで出る機会が増え、そのままファーストのレギュラーに定着した。

そして、オールスターにも監督推薦により出場し、2試合にかけて5打席連続ヒットを撃ち、マツダ・ビアンテ賞を獲得しました。

オールスター明けの後半も開幕からの調子を落とさず、1999年に同じチームのロバート・ローズ選手の作った右打者での最高打率.369を超える打率.378を記録し、自身初の首位打者を獲得しました。

この年は、慣れない外野ではなく、佐伯貴弘選手の不振により、ファーストを守ることになり、バッティングに専念できたことが一番の要因かなって思います。

また、顎の状態も2003年に比べると良かったことも好調を維持できた一つの要因だと思います。

あの日本を代表する好打者とされる内川聖一選手であっても、やはりこのようなブレークのきっかけがあって、今があるのかなって思います。

内川聖一選手は、今年34歳とまだまだ若いので、これからも日本代表、侍ジャパンとしても活躍してほしいです。